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追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません
追放された名家の令嬢ですが、最恐の黒竜様は私なしでは息もできません
Author: 花柳響

第1話 雨の夜の迷子①

Author: 花柳響
last update Petsa ng paglalathala: 2026-03-11 01:27:54

 ――冷たいはずの深夜の雨が、ひどく生温かかった。

 足元のアスファルトを叩きつける水しぶきを浴びながら、両腕で胸に抱え込んだ分厚いバインダーをギュッと握り直す。

(どうして、こんなことになっちゃったんだろう……)

 一時間前の出来事が、まだ頭の中でうまく処理しきれていなかった。

 自室の狭いベッドの上で、いつものようにピアノの楽譜を眺めていた時のことだ。有栖川家という名門の体裁を保つためだけに、お嬢様学校へ通い、一流の講師からピアノを習わされている。屋敷に帰れば家族の肩を揉む雑用係として扱われる毎日の中で、白と黒の鍵盤に触れている時だけが唯一の息抜きだった。

 将来はこっそり家を出て、どこか普通の町で、近所の子供たちにピアノを教える先生になりたい。そんなごくありふれた夢を思い描きながら、注意書きで真っ黒になった楽譜を大切になぞっていたのだ。

 そこへ突然、父が乱暴にドアを開け放って怒鳴り込んできた。背後には、ハンカチを顔に当てて泣きじゃくる妹の麻里亜と、ひどく不機嫌そうな継母の姿があった。

『お姉様、どうしてこんなことを……っ。お母様の大切な宝石、欲しいなら、私に言ってくれればよかったのに』

 何の話かまったく分からなかった。麻里亜が震える指で示したベッドの下から、メイドが空っぽのジュエリーボックスを引っ張り出した時も、頭の中にはてなマークが浮かぶだけだった。

「あ、あの、麻里亜。一緒に探そうか? きっとどこかで……」

 心配になって声をかけようと立ち上がった瞬間、視界が横に吹っ飛んだ。

 火の出るような痛みが頬に走り、床に倒れ込んだところで、自分が父に力一杯平手打ちされたのだと気づいた。口の中に鉄の味が広がる。

『言い訳など聞きたくない。手癖の悪い役立たずめ。頭を冷やしてこい!』

 二の腕を乱暴に掴み上げられ、そのまま引きずられるようにして廊下を進み、土砂降りの裏庭へと放り出された。

 あまりの急展開に呆然としたまま、両腕にはベッドで読んでいた楽譜のバインダーを、命綱みたいに抱え込んだままだった。大切な紙が濡れないよう、咄嗟に前傾姿勢になって背中で雨を弾く。

(麻里亜、大丈夫かな。お母様の大切な宝石、早く見つかるといいけど……)

 自分が理不尽に叩き出されたというのに、なぜか泣いていた麻里亜のことばかりが気にかかる。あんなに悲痛な顔をしていたのだから、きっと本当に大切なものがなくなってショックを受けているに違いない。誰かが掃除の時に、間違えて私のベッドの下に落としたのだろうか。

 ずぶ濡れの薄いブラウスが皮膚にべったりと張り付き、体温はとっくに奪い去られている。ガタガタと震える両膝を泥水に浸したまま、レンガ塀の暗がりでじっと息を殺していた。

 その時だった。

 ふと、アスファルトを打ち据える単調な雨のノイズに混じって、異質な音が鼓膜を叩いた。

「……っ、がはっ……」

 ひどく重く、くぐもった呻き声。空気を無理やり肺の奥底に押し込もうとして、気道が激しく詰まっているような、ひどく苦しげな呼吸音だ。

 びくっと肩を震わせ、泥水の中で顔を上げる。

 音のする方向へ視線を巡らせると、レンガ塀の影に、巨大な黒い塊がうずくまっていた。

 目を凝らす。野良犬ではない。ひどく大柄な男だ。仕立ての良い漆黒のスリーピーススーツを着込んでいるが、その高級な生地は泥と埃にまみれ、あちこちが無残に引き裂かれている。男は濡れたレンガに背を預けるようにして座り込み、頭を力なく垂れ下げていた。

 関わってはいけない。こんな夜更けにうずくまっている正体不明の男に声をかけたりすれば、また父から「余計なことをした」と怒鳴られる。頭の中で小さく警鐘が鳴った。

 しかし、男の喉から漏れる掠れた咳は、限界を超えて気管が破れそうなほど切実だった。

 胸に抱えていた楽譜のバインダーを、雨を避けるようにレンガ塀の僅かな庇の下へそっと置く。

 気がつけば、泥水の中を這うようにして、男の正面に膝をついていた。

 間近で見ると、さらに大きい。座っているのに、顔の位置がこちらの胸元あたりにある。

「ひゅぅっ……はぁっ……」

 男の胸が、激しく上下している。近づくにつれて、鼻の奥を突くような強い匂いが漂ってきた。雨の匂いではない。古い鉄錆と、何かが焦げたような、息苦しくなるような匂いだ。

 男の裂けたシャツの隙間から、その匂いの発生源が見えた。胸の中央、深く抉られたような凄惨な傷口。そこから赤黒い血がとめどなく溢れ出し、周囲の雨水と混ざって足元へと流れ出している。その血溜まりから、先ほどの異様な熱気が立ち上っていたのだ。

(痛そう……それに、息が、できてない……)

 私にこんな致命傷はどうにもならない。救急車を呼ぶにも、携帯電話など持たされていない。

 迷っている間にも、男の厚い胸元が痙攣し、硬い指先がレンガの表面を削り取るように掻き毟っている。

 痛みを抱えて苦しむ人間を見ると、条件反射で手が動いてしまう。有栖川家で長年、雑用やマッサージ係としてこき使われてきたせいで、身体が勝手に反応してしまうのだ。

「あの……大丈夫、ですか。ひどい怪我……」

 震える声を絞り出し、そっと手を伸ばした。

 男の胸に開いた傷口のすぐ横へ這わせる。

 裂けたベストの生地越しに手のひらを当てた瞬間、ジュッ、と指先の皮膚が焼けるような熱を感じた。雨で冷え切っていた手のひらが、一瞬で沸騰しそうになる。

 熱い。でも、手を引っ込めることはできなかった。指先から伝わってくる男の筋肉が、激痛に耐えるようにカチカチに硬直しているのがわかったからだ。父の肩のしこりをほぐす時と同じように、無意識に親指の腹に力を込め、その硬い筋肉の強張りを押し流すようにゆっくりと撫でる。

 ――痛いの、少しでも楽になるといいな。

 声には出さず、ただ指先に少しだけ体重を乗せた。

 直後だった。

 手のひらと、泥に塗れたスリーピーススーツの接着面から、奇妙なほど澄んだ空気が波紋のように広がった。

 血の匂いと焦げ臭さが、シュワシュワと微かな炭酸が弾けるような音を立てて溶けていく。冷たい雨の匂いと泥の臭気に混ざり合って、ふわりと、干したてのシーツのような、あるいは雨上がりの陽だまりのような清潔な匂いが周囲の空気を一気に塗り替えた。

 男の喉から漏れていた、気道が塞がったようなひどい呼吸音がピタリと止まる。

 手のひらの下で荒れ狂っていた不規則な脈拍が、嘘のようにゆっくりとした、しかし岩盤を打つような力強いリズムへと変わっていくのが皮膚越しにわかった。

「……っ?」

 不意に、力なく垂れ下がっていた男の頭がゆっくりと持ち上がった。

 雨水をたっぷり吸い込んだ漆黒の前髪。その奥から現れた顔を見て、ヒュッと喉元で息が止まった。

 泥と赤黒い血に汚れているはずなのに、思わず目を奪われるほどの整いすぎた顔立ちだった。真っ直ぐに通った高い鼻梁、薄く形の良い唇、そして鋭利な刃物のように美しい顎のライン。長い睫毛に縁取られた深い黄金色の瞳が、街灯の乏しい光の中でガラス玉のように透き通った光を放っている。

 あまりにも整いすぎた顔立ちから放たれる、ひどく熱っぽくて暴力的なまでの美しさに、自分がずぶ濡れで泥水の中にいることすら忘れて、一瞬だけ頭の中が真っ白にショートしてしまった。

 ただ怖いだけではなかった。目を逸らしたくても逸らせない、妙な引力があった。

 呆然と見惚れていた、その時だ。

 ガシッ!!

 万力、という表現すら生ぬるい。鋼鉄の枷を嵌められたかのような抗いようのない力で、右の手首が掴み上げられた。

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